消えた能登鉄道
(2001年3月)

消えた能登鉄道1 死ぬほどつれえ

  能登半島で2001年3月31日、1本の鉄路が消えた。第3セクター「のと鉄道」の穴水−輪島(20キロ)。マイカーの普及と急激な規制緩和の流れが、1935年以来65年の歴史を閉じさせた。廃線の1カ月前、現地を訪ねた。

 穴水駅に停まる1両の気動車に鉄道ファン10人ほどと地元のお年寄りが数人乗り込んだ。
 渓流沿いに急斜面をのぼり、古いトンネルを抜け鉄橋を渡り、しばらくすると一面が雪に覆われた。
  能登三井駅。鉄道ファンが1人、おばあさんが2人降りた。駅員がおらず、かわりにムラの活性化のために開いたという喫茶店が駅舎にある。おじいさんとおばあさんの笑い声が響いてくる。
 両手に買い出しの荷物をいっぱいに持って汽車を降りたおばあさんが、1日2便のバスを待っていた。腰は曲がっているが元気そう。
「廃線ですねえ」と声をかけると、まくしたてるように話し始めた。
 トメ子さん(71歳)。バスで20分ほどの山の中の家から週1度、バスと汽車を乗り継いで輪島まで買い出しに出ている。夫婦の1週間分の食糧を買い込むのだ。片道バス280円と汽車360円かかる。10歳上のジイさんは一銭も家計に入れてくれない。3万円ちょっとの年金では足りず、今でも山で枝打ちをして年に70万円ほど稼いでいるという。
 「笑うとれば福が来るっていうけど、ちっともこねえ。医者行くときも、バス乗って、汽車のって、またバスに乗って行くぞ。ゼンマイでもわらびでも、山菜は何でもできるけど、見舞いやら入院やら死んだやら、いろいろ金がかかるからジジババは大変だ。汽車がなくなるのは情けねえ。泣きとうなるくらいつらい。汽車の方が年寄りには座りやすい。荷物もゆったりおける。かわりのバスが出るっていうけど、乗る人おらんと1本減らし、2本減らしするからなあ」
 森喜郎の選挙ではみんなで応援したという。首相になったときは「汽車が残るかも」とも期待した。今は「だれがなっても同じ」と思っている。数年後に開港予定の能登空港の感想を求めると、こう言った。
 「オレには関係ないけ。輪島か穴水のスーパーに行くくらいだもん。月3万円ちょっとの生活して、飛行機なんか乗ったことねえ。死ぬまでにいっぺんだけ、のりてえって思ってるけど、そんな余裕ねえし。東京まで行くのに3万円。それだけあったら1ヶ月食える」
 生まれは輪島市の郊外。結婚前は朝市で芋などを売っていた。「町では食えないから」と言われて林業家の家に嫁いだ。
 「(旦那の)顔も知らんと来た。寝るまで知らんかった。10歳もちがうし、ヘタシターって思った。アッハッハ。なんて貧乏なとこに嫁に来たもんだと思った。財産もなーんもない」
 いまの楽しみは、この駅の喫茶店でおしゃべりをすること。金がなくても、のんびり話をしてすごす。顔を見せないと「出てきんかいや」と誘ってくれる。
 「人はいいし、楽しい部落やぞ。仲良うするのが大切だ。でもいつまで続くか。鼻たらして、小便もらすようになったら、誘ってくれなくなるもんな」
 話をしていると、喫茶のなかからおじいさんが何度もおばちゃんを誘いに来る。バスの時間が近づくと、ワンカップを2本持ってきて、おばちゃんの手に握らせる。
 「オレが酒好きって知ってるんだ。あんたも飲みなさい。話を聞いてくれてありがとな」と言いながら僕の手に1本を握らせ、バスに乗り込んだ。(つづく)

消えた能登鉄道2  消えた「秘境」イメージ

  能登三井駅から途中1駅をはさみ、終点輪島までは15分ほど。標高が下がるせいか、雪はすっかり消えた。ホームの200メートルほど先で線路はとぎれ、枯れススキが灰色の空に揺れている。
 駅の事務室のソファーでは80歳を超えた国鉄OBのおじいさんがくつろいでいる。たまに、「名古屋に行くんだけど、ホテルを教えて」などという電話がかかってくる。駅が旅行の「よろず相談窓口」になっているのだという。
 穴水−輪島間は、国鉄七尾線として1935年(昭和10年)に開通した。昭和30年代から40年代にかけての「秘境」ブームの時には輪島から大阪への直通急行が走り、輪島駅には長蛇の列ができ、4,5両編成がシーズン中はいつもすし詰めだった。
 半世紀前、駅前は、すぐ隣まで田が広がっていた。駅前の土産物屋を営む岡田さん(64)によると、駅周辺には呉服屋と食料品店と彼の祖母が創業した土産物店の3店だけ。
 松本清張の「ゼロの焦点」が出たころからボチボチ観光客が現れ、昭和38年ごろからの秘境・半島ブームで一気に増えたという。
 「駅前はなんとなく中央とつながっている感覚。ここが輪島の玄関だって気持ちだった」と話す。
 輪島市内と周囲の漁村では着ているものも違った。鉛色の海沿いの漁村では、老人は黒いマントをはおり、子供達はみな、お兄ちゃんのお古を着ていた。後ろから見ても「町の子」との違いがわかったという。
 アルミサッシやテレビが普及するとともに、独特の雰囲気がなくなった。服装も顔の表情も市内や東京と変わらない。漁村のおばーさんといういでたちの人も見られなくなった。子供の言葉は、テレビの影響で金沢市の子よりも標準語に近くなった。
「20年前くらいかなあ。写真をとりに来る人がいなくなり、私もとらなくなった。秘境のイメージがなくなったもんなあ」

 観光ブームが始まったころは民宿や旅館の数も少なく、予約なしでは泊まれなかった。家族づれで夕方駅に着いて、「寝るところがない」とよく相談された。
  警察官が知人に電話して泊めてあげたり、隣の村や町の商人宿を探したり。野宿する若者も多かった。岡田さんの店もシーズン中は午後12時まで開けていた。
 道路が整備され、金沢との特急バスが走り、各家はマイカーを持つようになった。鉄道をつかうのは今では年寄りと高校生くらい。
 昨年2月に突然知事が「廃止」を表明したときは、
「自分の人生がすべて否定されたようで、密室で決められたことに激しい怒りを覚えた」という。だが、自分たちでさえ鉄道はめったに利用していないから、「いずれは廃線になるかなあ」という思いもあったという。
 駅前は半世紀前の「町はずれ」に戻ろうとしている。市や県にバスターミナルの設置を求め、なんとか認められたが、地図から鉄道の太い線が消えてしまう不安は尽きない。
 「子供のときはSLで、明け方にゴトンゴトンと機関車が入ってきて、話し声も聞こえて、『あー準備してるなあ』と思った。気動車になって味気なくなったけど、朝は静かだから、コトンコトンと一番列車が入ってくる音が聞こえる。廃線の話が出てから、毎朝その音で目が覚めて、『だれも乗ってないんだろうな、寂しいなあ』と思ってしまうんですよ」
 午後10時になると、輪島の街は真っ暗だ。おいしい、と聞いていた寿司屋は閉まっており、うらぶれたスナックや居酒屋の灯がポツリポツリと点在する。そのうちの一軒の居酒屋に入る。髪がほとんどないタコ入道のような大将とその奥さんと、男性客が1人。なんとなくいい雰囲気だ。輪島市民の3分の2が漆器にかかわっていると言われていたが、大将も、かつて塗りをしていて、不況で転職したという。
 客は地元漁協の幹部だった。鉄道廃線の感想を求めると、こうまくしたてた。
 「地図に印がなくなるのが…というやつがいるけど、だれも鉄道なんか使わない。廃止反対だなんてだれも思ってない。金沢まで2時間半もかかる。車なら1時間半だ。その点、のと空港はありがたいよ。東京や関西に日帰りで行けるんだから」
 廃止反対の運動を担っていた市役所の職員でさえ、
「県庁に行くにも、重い書類をもって汽車を乗り換えるのはしんどくて、バスを使うようになってしまった」と言っていた。働き盛りの人にとっては、鉄道はなんの役にも立っていないのだ。でも本当は、鉄道に自転車を載せられるようにするとかして、需要を喚起する方法はあるはずなんだよな。
 ブリの子、カレイの縁側、うるめイワシの刺身、シメサバ……。魚はうまい。冬は輪島側の海はしけてるから能登半島の内側の牛津港に水揚げされる魚を買ってくるという。「能登の誉」の一番安い銀撰をコップ酒で3杯あおったら、
「おっ、にいさんいい飲みっぷりだねえ」とほめられた。(つづく)



消えた能登鉄道3 65年前の開通式

  翌朝、輪島の朝市を歩いた。ほおかむりをしたおばあさんたちが、魚や干物、土産物を売っている。珍味のへしことか、イカを内臓ごと干したものとか、よだれが出てきそうなつまみがいっぱい並んでいる。
 手作りの梅干しを地面に並べていた女性に声をかけた。
  ヒサさん(75)。4キロほど山のなかの家で、自分で梅干しを漬けて、毎朝、家族に来るまで送ってもらって、朝市で小遣い稼ぎをしている。
  「朝一番のお客が男の人だと縁起がいいんだよ」とうまく乗せられ、1000円の梅干しを買わされた。
 数えで10才のとき、親に連れられて七尾線の開通式に参加したことがある。花火や電飾で飾られたにぎやかな祭りだったという。
  若い頃は兵庫の塚口の食堂で1年間皿洗いの女中奉公をした。戦争のときは滋賀の石山の東洋レーヨンの工場で魚雷を作っていた。
  戦後も金沢の親戚の家に行くなどで汽車はいつも使っていたが、10年ほど前から特急バスに切り替えた。
「年寄りには乗り換えがつらいもんね。みんな車持ってるから汽車なんて使わないよ。私より(汽車の方が)寿命が先だったねえ」
 2002年には規制緩和によって、路線バスの参入撤退が自由になる。能登半島先端部のJRバスはすでに全廃の方針を打ち出している。不採算路線は全国的に切られる流れだ。少子化によって高校生の数が減ればその流れはさらに加速するだろう。かといって自治体が代替バスをすべて運行するだけの余裕はない。
 輪島市でも「車だけを各集落に配置してシルバーボランティアの人に運転してもらおうか」……などと考えながら、頭を抱えているという。(おわり)

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